日本のベートーヴェン受容史の礎となった久野久子(1885-1925)の研究を続けています。Change.orgで東京都文京区、小石川伝通院にある久野の墓を史跡として保存する運動を続けています。このページをお読みになった上で、ご賛同される方はどしどし、ご賛同いただきますよう、お願いいたします。

 

 

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邦楽から洋楽へ

 

 久野の母、うたは芸事が好きだったため、久野は京都の生田流の名人、古川検校のもとで琴・三味線を学んだ。尋常小学校を終え、古川検校のもとで邦楽の修業に励んだ。これは兼常清佐の妻、篤子も認めている。篤子は次のように記している。

「私どもは曾て一度も久野先生の筝も三味線も聞いたことはありませんが、若しやる気になれば筝も三味線も、唄もまだ忘れずにお出来になったことと思います。芝居も恐らく若い時にはごらんになったことでありましょう。何かの話の中で弁慶上使の段の文言が出たことがありました。」

この証言は貴重である。歌舞伎の場面、科白も出て来る。筝、三味線、唄も出来ただろうという指摘は見逃せない。

 腹違いの兄、弥太郎は京都の第3高等学校に通い、1901年、東京大学に進む際、久子に東京音楽学校受験を進め、兄と共に上京することとなる。弥太郎はこれからは洋楽の時代が来ることを睨み、久子に音楽学校受験を進めた。この読みが見事に当たり、日本のベートーヴェン受容史の礎となった。

 

 

黒須やすこの取り組み

 

 ピアニスト、黒須やすこが3月31日、新潟県村上市にある久野久子ゆかりのピアノでコンサートを開催するという。これは久野が大阪、三木楽器から購入したという。プログラムは次の通り。

 

クープラン メヌエット

モーツァルト フランス民謡「ああ、お母さん、全てお話します」による12の変奏曲 K.265

                           ピアノ・ソナタ第8番 K.310 第1楽章

ショパン ノクターン Op.9-2

                   幻想即興曲 Op.66

                   ワルツ 遺作 イ短調

リスト 愛の夢

ドビュッシー 2つのアラベスクから第1番

       ベルガマスク組曲から「月の光」

サティ お前がほしい

モンポウ 歌と踊り 第8番

プーランク 即興曲第15番「エディット・ピアフを讃えて」

 

会場は村上歴史博物館、午後6時30分開演である。興味のある方は如何だろうか。

 

 

久野久子の幼少期と足のけが

 

 久野は幼少期、近くの平野神社の石段から落ちて、足に重傷を負い、生涯にわたり不自由となった。ここで、中村紘子は「英雄クノ・ヒサコ」を底本としているから、久子と兄、弥太郎は実母の子ではなかったとしている。久子の実母はうたであり、弥太郎はふさの子であった。弥太郎とは異母兄弟だった。兼常清佐はやたら中傷誹謗した内容で、実家は高利貸しだったとしている。これが中村に引き継がれ、

「日中から雨戸を立ててどことなく人目をはばかる風情で、用心深くひっそりと暮らしていた。」

と記している。両親が亡くなると久野家は離散、京都の叔父の許へ引き取られたという。

 吉田光邦は、継母との折り合いが悪かったためではないかと推測している。久野家が没落したとは記していない。久野家は大津の資産家として名を残していたからである。姉あい子が入り婿、久野桂之助を迎え、久野家が存続している。あい子と桂之助との間に長女せい、次女綾子、長男弥一郎が産まれている。

 久野の師、幸田延は父弥助の話をよくしていたという。また、久野の墓石を作ることとなった朝倉文夫が東海道線の3等車で2人の音楽学校女子学生と乗り合わせた際、その一人が久子だった。その時の思い出が、久野の死後、東京都文京区の伝通院の久野の墓石づくりにつながっていく。

 母うたは芸事が好きだった上、久子の足の障害を考え、京都市上京区西方寺町両替町竹屋町の叔父、服部弥太郎のもと、小学校に通いながら古川検校のもとで修業に励んだ。兼常の妻、篤子も認めている。篤子は、久野が筝曲を弾くことができた可能性にも触れている。

 1901(明治34)年、弥太郎は東京大学へ進学。これからは洋楽の時代とみた弥太郎は、久子に東京音楽学校への進学を進めることとなった。

 

 

久野久子の生い立ち

 

 久野久子の生年について1884年説、1886年説があった。現存する久野家の戸籍によると、1885年だったことがはっきりした。1884年説が出た背景には、1925年4月21日、ヴィーンで自殺した際、死亡証明書は1884年生まれと記していたことにある。1886年説は数え年での年齢から出たようである。

 仮に、吉田光邦が「挫折のピアニスト 久野久子」を執筆する際、久野の戸籍調査を行っていれば、1885年と確定していた。しかし、東京芸術大学での職員履歴閲覧だけだった。吉田が久野に関する研究論文を執筆した際、戸籍調査を怠ったことは致命的だった。

 久野家は滋賀県大津市では資産家で、父、久野弥助は、久子の姉あい子には入り婿として、久野桂之助を迎え、大津の久野の家系を残した。2人の母はうた(旧姓吉川)で、弥助は跡取りの男子に恵まれなかったせいか、一旦、うたと離婚、ふさ(旧姓服部)を迎えた。ふさの連れ子だった弥太郎を久野家の跡取りとしている。ふさがなくなると、うたと復縁している。弥太郎は、1901年、東京大学法学部に進んでいる。こうした事情も手伝い、あい子に婿をとって、大津の久野家を残している。

 父弥助は1911年、この世を去っている。それでも、久野家は資産家として残った。中村紘子は高利貸しの家で、両親が亡くなって久野家が没落したなどと記している。兼常「英雄クノ・ヒサコ」は「高利貸しの家」と記した。これは、久野に対する兼常の妬みから生じたもので、中村はよく調べもせず、うのみにしたことが大きな誤りだった。

 

 

中村紘子「ピアニストという蛮族がいる」は作り話である

 

 日本のベートーヴェン受容史の礎、久野久子(1885-1925)の生涯をまとまったかたちで公にした最初のものは、日本の女性の地位向上に尽くした長谷川時雨(1879-1941)晩年の女性評伝集「春帯記」(1937年)である。その後、吉田光邦(1921-1991)が京都大学の研究紀要「人文学報」(1971年)に「挫折のピアニスト 久野久子」を執筆した。吉田の場合、長谷川時雨の評伝をはじめ、当時の新聞記事、東京芸術大学所蔵の久野の履歴を用いている。

 その後、堀成之「日本ピアノ文化史」(1982-1984年 「音楽の世界」日本音楽舞踊会義)にも久野に関する記述がある。その延長線上に、中村紘子「ピアニストという蛮族がいる」(1991年、1995年 文芸春秋社)が出た。

 2016年に惜しまれつつ世を去った、日本を代表するピアニストの一人、中村紘子による評伝は全くの作り話である。その底本が兼常清佐(1885-1957)晩年の雑誌記事「英雄クノ・ヒサコ」である。兼常については、「兼常清佐著作集」全15巻が、蒲生美津子を中心として大空社から復刻版で出版されている。この文章は著作集には入っていない。今は倒産した出版社、雄鶏社が出していた雑誌「雄鶏」に掲載されていて、国立国会図書館のデジタル資料で閲覧可能である。

 1915年1月、兼常は久野が交通事故で重傷を負った新聞記事を見て、久野への親近感を抱き、東京へ出てから久野の熱烈な賛美者になった。久野のピアノの弟子で、後に妻となった篤子が兼常に原稿を依頼すると、久野への賛美が激しくなった。1916年12月3日、交通事故からの復帰記念コンサート、1918年12月7日、8日のベートーヴェン・リサイタルを激賞した後、1922年、ドイツ、ベルリンへ留学する。篤子には、久野にベルリンに来るようにと書き送っている。1923年、久野がドイツ、オーストリア留学に出発、留学に関する面倒も見ている。1924年、兼常は帰国、1925年に久野の自殺となる。兼常は久野の死後、だんだん久野を攻撃するような文章が目立った。

 「英雄クノ・ヒサコ」は完全な中傷で、中村が底本に用いたことは残念である。また、宮本百合子「道標」も底本にはならない。宮本は久野の演奏を聴いていない。小説というフィクションに過ぎない。「近江の女」もアマチュアがまとめたもので、底本に用いるべきものでもない。生い立ちにしても兼常に基づいていて、完全な作り話である。音楽学者の中にもこれを用いていることは残念である。