鈴木雅明 音楽講演会 バッハと改革派教会

 日本を代表するバッハ演奏家、鈴木雅明が日本キリスト改革派、東京恩寵教会で「バッハと改革派教会」による講演を行った。オンライン・対面形式を取る形による。

 まず、教会の主任牧師、石原知弘牧師のあいさつに始まり、講演が始まった。バッハは1717年から1723年まで、ザクセン、アンハルト=ケーテン侯国ケーテンの宮廷楽長(カペルマイスター)に着任した。一方、これがバッハは人生最大の試練の時期にあった。レオポルト候に随行、カールスパートに赴いた時、最初の妻、マリア・バルバラを失った。残された子どもたちの悲しみは深かった。また、葬儀の際、葬儀代を請求された際、

「妻に聞いてくれ。」

と言ったほど、バッハも落胆していた。そんなバッハの前に現れたのが、ケーテンの宮廷トランペット奏者の娘、アンナ・マグダレーナであった。アンナ・マグダレーナとの再婚で、バッハは新たな道を歩むことになった。

 ケーテンではブランデンブルク協奏曲、クラヴィーアのためのインヴェンションとシンフォニア、フランス組曲、平均律クラヴィーア曲集第1巻、6つのヴァイオリン・ソナタといった器楽作品を残した。教会カンタータ・世俗カンタータもいくつか作曲している。

 ケーテンでは、レオポルト候自らヴィオラ・ダ・ガンバを奏するほどの音楽好きで、バッハと親密でもあった。フリーデリカ・ヘンリエッテと結婚したものの、ヘンリエッテが音楽嫌いだったため、レオポルト候の音楽熱も冷めた。これが、ライプツィッヒ、聖トーマス教会カントールに就任する一因となった。ケーテンはカルヴァン派で、ルター派教会もあったとはいえ、ルター派信者は教会での結婚式すら認められなかった。ルター派教会、聖アグヌス教会の牧師の評判もすこぶる悪かった。レオポルト候の母、ギーゼラ・アグネス候妃はルター派貴族出身、ルター派信者たちの権利も認めるべきであるとする立場を取ったため、レオポルト候と対立、母親の居城に近衛兵が攻め込む事件も起こった。こうしたお家騒動もライプツィッヒへ移った一因だったことも頷ける。

 鈴木がルターとカルヴァンの音楽観について、ルターは礼拝ではカトリックのミサをもととし、カルヴァンは詩編を重視したことを指摘した一方、カルヴァンがルターの影響を受けていたことも言及した。1573年、アンブロシウス・ロプヴァッサーがライプツィッヒでジュネーヴ詩編歌集を出版、ドイツでも詩編歌が広まった。ルター、カルヴァンが世の秩序は神によるものだとすることは、17世紀から18世紀半の絶対王政再考にもつながる。バッハが聖トーマス教会カントールとして、ドレースデンの宮廷に世俗カンタータを作曲、演奏していることから考えると、重要だろう。

 講演終了後の質疑応答では、ブクステフーデ研究に取り組む音楽学者もいた。いろいろな点から質疑応答が出て、充実したひと時だった。